あなたのデータベース
他人と行動を共にすること。
それはもちろん楽しいことである(気が合うやつに限る)が、楽しいというだけでなく、そこに意味を求め始めるとなんだか難しい議題になってしまう。
楽しいだけでは足りないのか、楽しくないなら他人と一緒にいることに意味は無いのか、この人と行動を同じくすることにそれだけの価値はあるのか。
そもそも一人でできる事は、誰かと一緒にではなく一人でやったほうが大抵早く終わらせることができるものだ。
他に気を配る必要もなく好きに行動できるため、精神的にも体力的にも余裕を持つことができる。
何かの本では、「ぼっち飯ができない奴は成功しない」などと書いているものもあったが、一人で出来る作業は他人に依存するのではなく、やはり一人で完結させることこそが大切という意味だろう。
もしも全てのことを一人でこなせるなんて神みたいな人がいたら、それは一人で行動する事こそ正解なのかもしれない。
しかし、僕らは他人と協力してこそ何かを成し遂げられることが多いのだ。
他人と行動を共にする「必要」があるのである。
それが現実なのであるが、それは仕方がなくやるようなことなのだろうか、もしくは一人ではなく他人と行動できることを喜ぶべきなのだろうか。
言うまでもないが、他人と行動を共にすることで得られることは膨大である。
それは新しい情報や考え方だ。
他人から話を聞くことで、一人では知ることのなかった洞察を得られることが度々ある。
それはいくら行動を共にしようとも他人は飽くまで他人であり、自分との違いから得られるものなのだ。
仮に自分と全く同じ考え方を持つ人間がいたとしよう。
そいつとは何でも意見が合うに決まっているから、一緒にいるとさぞ居心地がいいだろうと思う。
自分一人だけでいると、だれからも否定こそされないが、もちろん肯定してくれる人もいない。
考え方が同じで、ずっと自分を肯定し続けてくれる、そんな人間がいたらどんなに楽だろう。
しかし、もちろんそんな他人なんて存在しない。
いくら近かろうとも人は違いを持つのだ。
内面が安定している人間は、きっとこのことを心の奥底で確証していて、彼らは代わりに別の方法で自分の意見を肯定する術を持っている。
しかし内面が安定していない人間は、どんな現実でも自分の考え方に当てはめられると思っている。
自分の考え方の枠に他人を押し込め、自分とをずっと肯定し続けてくれるようなクローン人間に改造しようとする。
自分とは違う考え方を知る事こそ人間関係がもたらす利点であるというのに。
僕らはみんな偏ったデータばかり持っている。
そんなデータベースじゃ正しい判断なんて出来やしない。データは少なすぎるし、偏りすぎている。
この世界のいろんなことを知って、正しい考え方を身につけるには、一人でやるには余りにも力不足だし、人生は短すぎるのだ。
他人とデータを共有し合って自分のデータベースをより良いものにする、と考えると、本当に何かを得たいと思っているのなら、他人と会って話をすることが一番の近道なのかなとも思ったりするのである。
しかしそれは得てして目には見えない果実なので、簡単にその価値を見出すことは出来なくて、なんだかそこに意味だの価値だの求めたくなる。
偉い人が言ってたが、本当に大切なものは目には見えないのだ。