カップ麺で考えた人格形成

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今は実家にいるのだけれど、今日は母が忙しく昼飯はカップ麺だった。

うわーマジか。カップ麺かー・・・

 

飯がカップ麺と言われると、多くの人ががっかりすると思う。

でも僕は以前そんなふうに感じていなかった。

 

僕の家は毎日母が料理を作っていたので、子供の頃はカップ麺を食べるのは特別なことで、なぜかそれだけで嬉しい気持ちになったものだった。

今となってはカップ麺が出てきても、母の手作りの料理とは味に関して比べ物にならないと思うし、なんといっても嬉しいなんて思わない。

カップ麺は一般的に栄養がなく美味しくないものとされているけれど、なぜか母の手作りよりも美味しいと感じていたことは事実だ。

いや、実はカップ麺の方が優っていたのかもしれないが、親元を離れて長らくカップ麺生活をしてきた今考えると、それはありえないんじゃないかなと思うのだ。

 

なんでなんだろうと、なんでそう思うようになったんだろうと、久しぶりに帰省してカップ麺を食べながら思った。

自分の味覚が変化した・・?そんな簡単には変わらないだろう。

 

今考えると、昔はカップ麺が嬉しくて美味しかった、それはやはり「特別さ」や「まれ」であることがそうさせていたように感じる。

以前はカップ麺より母の手料理のほうがずっと多かったのに、今となってはカップ麺ばかりの生活となってしまった。

それらの頻度は完全に入れ替わってしまって、この入れ替わりによって感じ方が変わったんじゃないかなと思う。

間隔という時間と、昔と今という時間の違いによって、変わっていったんだろう。

 

と考えたけど、そんな「感じ方」って変わるものなんだろうか。

なんだか、簡単に変わってはいけないような、なにか大きなトリガーが無いといけないような、そんな気もするのだ。

 

まあでも、母の手料理の方が美味しいと感じるほうがいい気がする。

母としても手間をかけて作った料理より、お湯をかけただけで完成するカップ麺のほうがウマいと言われたら腹も立つだろう。

ただ少し皮肉だよなあと。

母は健康意識が高い人で、なんかよくわからない料理の資格とかも持っていてとことん手作りにこだわっていて、だからカップ麺を出すなんて絶対にしたくなくて、でもそのことがカップ麺を美味しいと感じさせる原因になったような気がするからだ。

 

でも、母がそのような人でなくとも、

母「はい、手料理」

僕「うわーカップ麺がいいわあ」

母「じゃあお前毎日カップ麺な」

僕「クソ嬉しいです」

 

とはならなかっただろう。

カップ麺が美味しかったのは、その出現間隔が長かったからこそ感じる美味しさであって、それ自体が美味しいというよりも、時間がそう感じさせていたのだと思うからだ。

自分が持っている味覚とか他のいろんな感覚、感性だったり興味だったりも、きっと今の自分が持っているもので、時間によって変わっていくのかもしれない。

 

そういう感覚がまさに自分の人格を作っているのだと思っていたけど、それが変わっていくということはどんなことかなあと考えたけれど、多分変わろうが変わらなかろうが同じことだろうとも思う。

その瞬間瞬間では、その時持っている暫定的な感覚を総動員して人格を作っている、それでいいと思う。

いろんなものが変わろうがどうだろうが、その時々の感覚が自分の全てなんだろう。

 

 

そんなことを考えながらカップ麺を食べていると、気づけば麺は伸びてしまっていた。

あーあ...。

 

 

 

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