面倒くさいことは、やるべきこと

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面倒くさいことってたくさんありますよね。

でも面倒くさいけどやらなきゃいけないこと、皿を洗うだとか、歯を磨くだとか、そういうことはやっぱり面倒くさいけれども、やらないまま終わるということはないはずです。

この記事の話は、必ずしもやらなくてもいい上に、面倒くさいことについてです。

 

前回、前々回とオンライン英会話レッスンについてちょっと記事を書きました。

内容としてはそれを推薦する形の記事だったんですが、正直なところ、レッスンを毎日受けるのは面倒くさくて仕方がありませんでした。。

一回たった30分なんですけど、それでもおっくうなんです。

いちいちパソコンを開いて、スカイプを起動して、ヘッドセットを繋げて、、、

英語を話すことは少なからず精神力を使いますし、終わったら少し疲れます。

毎回毎回、面倒くせええええと思いながらやってました。

それでも、レッスンを受け続けていたのには理由があります。

それは「面倒くさいことは、まさにそれがやるべきことである確率が高い」ということを、経験的に学んでいたからです。

これについて、ちょっと書こうと思います。

 

まず、「面倒くさい」と思ってる時点で、そのことは少なからずやるべきことだとあなたの中で認識しているということを考えてください。

全くやらなくてもいいと思っていることについて、いちいち面倒くさいなんて考えますか?

そんなもの、やらなければ良いんです。それで終わりです。

しかしそう思っているということは、その事柄の過程や、自分がその事を行っている姿をわざわざ想像して、その上で面倒くさいと判断しているんです。

よって、面倒くさいと思った対象は、全くやらなくてもいいものではありません。

あなたの中で、それはすでに注目に値する存在で、さらにそこまでの思考作業を経ているんですから、やるべきことなのかもしれないということがわかります。

 

 

次に、面倒くさいことは希少価値があることが多く、そのためにやるべきことになる場合もあります。

つまり、面倒くさいことを行うにはそれなりのエネルギーが必要なため、多くの人がそれをやらずに済ませているということです。

そんな中であなたがそれを行えたなら、それは比較的価値のあるものになり、そして価値のあるものは得てしてやるべきことである可能性が高いと、そういう訳です。

例えば、早起きなどはどうでしょう。

ほとんどの人が、やったほうが良いのではないかと感じているものだと思います。

しかし、それで全員が全員早起きするようになってしまったら、社会全体の活動開始時間が早まってしまい、それは既に早起きではなくなってしまうかもしれません。

他人に比べ面倒くさいことをするということが、既に希少価値を持っており、その結果やるべきことであるかもしれないとはこういうことです。

 

最後に、やるべきことだったと後から結論付けるのは最終的に自分だ、という視点から書きます。

過去を振り返って、後悔することって何ですか?

それは、多くのことが行うことが困難だったことだと思います。多くのエネルギーが必要とされるせいで、行動に移せなかったことだと思います。

面倒くさいという感情を持つ類の事柄はどうなのでしょう。

もちろん、面倒くさいと思ったからやらなければ後悔するとは断言できませんが、あなたがその時それを「面倒くさい」と感じた時点で、そのことはあなたにとってエネルギーを必要とする事柄であることは確かです。

で、エネルギーを多く必要とすることをその大変さのせいでやらなければ後悔するのならば、その「面倒くさいこと」をやらなければ、後々後悔する可能性が高いと言えるのではないでしょうか。

そして、その後悔から、「やるべきだった」と自分の中で決定づけるのです。むしろ、そう決めたから後悔しているのかもしれません。

いずれにせよ、面倒くさいと判断した時点でそれは、後悔の対象になるだけの素質を持っているのです。

 

 

面倒くさいことは、やるべきことである、ということについて書きました。

その時点では、何が確実にやるべきことであるかなんて、絶対の自信があることはそう多くありません。

だから、それがやるべきことであるかどうかの判断基準をしっかりと作っておく必要があるんです。

「面倒くさい」という感情が、その一つの材料になるという話でした。

 

 

A4  1枚で「いま、やるべきこと」に気づく なかづか日報

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