あなたを説明するもの

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やっと春が近づいてきた。
卒業式のシーズンである。

僕も例外ではなく、昨日、無事卒業式を終えた。
高専は五年間も通うのだから、それぞれが持つ感動もその分大きかったように思う。


なんとなしに客観的にみて、僕は来年度から大学生ということから、これから就職し社会に出る人たちと比べると不安は少ないような気がしていた。
俺はまだまだ学生だぞ、と。


肩書きとは


しかし卒業式を終えた今日ふと考えることがあった。
卒業式を終え、そしてまだ大学の入学式を迎えてない今、僕はどの学校にも在学してなく、学生ではない。
今まで社会から僕を守ってくれた肩書きや地位はもう存在しないのである。

僕はこれまで学生という肩書きに、これでもかというほど執着していたように思うのだ。
社会的リスクが実に少なく、常に守られているようなものであり、色々な事に気兼ねなく挑戦できて、しかもそれによって失うものは極めて少ない。それが学生だ。
僕はそれを最大限活用して色んなことを勉強できたと思う。

学生という肩書きを失っている今、なんとなく社会のリスクにさらされている気がして少なからず不安を覚えるし、またこれまでと同じ振る舞いをすることは出来ないと思うのだ。
肩書きは人の行動を左右する大きな力を持っていると思うのである。


あなたを説明するもの


行動の積み重ねが、その人を作っていくという。
であれば、肩書きはその人がその人であるための重要な要因であると捉えて良いはずだ。
肩書きを失った今、僕はこれまでの僕とは違うのだろうか。

つまり、昨日の僕と今日の僕は人間的にはさほど変わらないはずだけれど、そこには学生か学生でないかの違いがあって、それによって僕を説明できる要素が1つ無くなったんじゃないかと思うのだ。
それも大きな力を持った要素が、だ。

肩書きが何だろうが僕は僕なのだから、学生でなくとも自分をきちんと説明出来ればと思いたい。
思いたいけれど、それは元来無理なんじゃないかとも思うのだ。
肩書とは行動を左右する力を持っていて、その行動が僕を作ってきたと言えるからだ。
そして現実を見ても、仕事や学生として活動している時間は行動の活動の多くを占めていることは間違いない。

正直僕は自分を説明するとき、肩書きを使ってでしか上手く説明できないと思う。
少しさみしい事のように感じるが、仕方がないと今のところ受け入れている。
相手がどのような人かを知りたいとしたときに、肩書きを知ることを良しとしない人は稀だろうし。

ただ、時を重ねていくうちに、自己満足という点で、肩書なしに自分という人間がどのような人間か説明できればいいなと、いつも思っているのだ。