自分なりに楽しみたいのならば

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映画と小説では、同じストーリーのものを観る、読むとしても、その内容の伝わり方は多かれ少なかれ変わってくるものだ。
これは言わずとも当然の事であると思う。

分かってはいるはずだったが、何がどう違うのかまではよく考えたこと無かった。
最近なんとなくこれについて考えることがあったので、完全に感じ方、捉え方によるものだが、少し書いてみようと思う。



先日小説に関する記事を書いた時ある方からその小説の映画もとても良いと聞いたので、それじゃあ是非ということで小説を読んだ後に映画を見てみた。
普段映画はあまり見ないので、久しぶりに映画に触れる良い機会となったし、事実その映画は面白かった。
映画は面白かったんだけど、やはり文字と映像では捉え方が変わってくるなあと感じた部分があったのだ。

例えば次の様なときだ。(これは実際にあったようなシチュエーションだが、完全に同じではない)
小説では、「兄弟はポックコーンを時折こぼすほど、その映画をかじり付くように観ていた」
という一文があったとする。
これだけ読むと、「それだけ映画が好きなんだなあ」とか「兄弟でそんなに熱中できるっていいな」とか「なんだかだらしないなあ」とか思うんじゃないかなと思う。

これが映像になったらどうだろうか。
かじり付くように観ているとあり、ポックコーンを時折こぼす、これは兄弟2人揃って口をポカーンとあけて画面に見入り、時折その口にポップコーンを運ぶが上手く入らないくらい集中している、というような場面がな再生される。
これを想像していただいたら、どのように感じるだろうか。
そんな映像を観ると、「汚いなあ」とか「兄弟揃ってだらしないなあ」とか「ブサイクだなあ」とか想ってしまうのではないかと思う。

映像にしたほうが現実に近い表現を届けることが出来るのかもしれないが、そのせいでいらぬ嫌悪感を抱いてしまうときがあるということである。
分かりにくいだろうか?


要するに、文字で読むとと映像で観るのとでは、伝わってくるリアリティが全く違うのである。
単純に、「ブサイク」という設定一つについて考えてみよう。

小説で主人公がブサイクという設定があっても、小説を読んでいる人はその設定が書かれた文章くらいでしか「主人公はブサイクなんだ」とはわざわざ思わない。
しかしこれが映像になると、僕らは毎秒ブサイクだということを突きつけられるような感覚に陥ることになる。
小説では決してそれを強調することは無いような場面でも、映画はそれを表現せざるを得ないのである(程度は変えられるかもしれないが)。
よって小説では大して気にならなかったことも、映画ではなんだか引っかかるような印象を受けてしまうのだ。

断っておくが映画にとってこれはマイナスの点ではなく、むしろ設定を忠実に再現し突きつけることのできるリアリティさを持ち合わせていると言える。
しかし、仮にそのブサイクだという設定が重要なストーリーだったとしても、毎度毎度ブサイクを突きつけられると少々嫌気がさすのではないだろうか。
小説では、その点個人の想像力で勝手に補完、またはその設定を全く気にせずストーリーを進めることが出来るのである。
作者がブサイクという設定を突きつけたいタイミングのみ、その設定を思い出させるような文章書けば良いのである。
小説は、読み手の想像力にある程度身を任せているが、だからこそ、読み手は自分のストレスにならないよう想像しながら読み、結果楽しむことが出来るのではないだろうか。
読み手が作者の意図を組めているかどうかは別として。

よって僕は、ストーリーを「楽しむ」ことが目的であれば、小説を読むことが優れているのではないかと思う。
もちろん文字では表現しにくいことも映像であれば簡単に再現できることもあるだろうが、その逆も然り、なのだ。
映画のほうが感情移入もしやすいし、観ることのほうが疲労感も少ないかもしれないが、自分なりにいくらでも「楽しく」想像できる小説でこそ、ストーリーを自分なりに楽しめるんじ
ゃないかと思う。

小説と映画、これらは比べるべきものではないかもしれないが、自分なりにであるかもしれないが、よりストーリーを楽しめるのはどちらかなと考えてみた。