環境に身を任せる

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環境に身を任せるということについて。

 

僕らは環境を求めて努力を続けている。

いい大学に入るためでもそうだし、でっかい会社に入るためにでもそうだ。

その環境に身を置きたいがために、様々な犠牲を払うのだ。

なぜなら、人は環境から学べることがたくさんあることを知っており、環境に左右されることはしばしばあっても、環境を左右できることは殆ど無いことを知っているからだ。

 

 

時に人は、環境に振り回されて自分のやりたいことがやれなくなってしまうことがある。

年を重ねて経験を積んでいくに連れてそのようなことは起きにくいと言われるが、環境に振り回されるということは、往々にして避けるべきだと忠告される。

 

しかし、本当にそうなのだろうか。

環境に振り回されることは良くないことなのだろうか。

 

環境に振り回されている状態。

それはきっと、最も環境に溶け込んでいる状態なのではないだろうか。

周囲がやっているように自分も行動し、とりあえず何にでも飛び込んでみる、そんな状態だ。

 

これでは自分のやりたいことはなかなか出来ないかもしれない。

環境に左右されているということは、それ自体が意思の弱さを表しているかもしれない。

しかし、あなたはそもそもその環境に身を置きたくて努力してきたのではないだろうか。

わざわざ環境が変化したというのに、どこででもやれるような自分のやりたいことをやって、環境から身を遠ざけているようであれば、それはもしかしてその環境からは何も得られないのではないだろうか。

 

「僕はこれをやるべきなんだ。他のことには構っていられない。」、こんな考えは、自分の意見をしっかり持っているという点では素晴らしいように感じるけれども、環境から、周囲から何かを得られるかどうかという点では非常に危険だと思う。

例えば、大学に入る前からサッカーをやろうと決めている、とか、会社に入る前から保守点検に就こうと決めている、とか、そんなのは勿体無いと思うのだ。

 

ざっくり言えば、サッカーも保守点検も、どこでだって出来る。

実際に新しい環境に飛び込んでみて、そこで改めて「いいな」と思ったものこそ、その環境で得られるものではないだろうか。

そりゃある程度の希望は必要だろうけど、新たに環境に飛び込んだのならば、その環境に一度身を任せてみて、それによってその環境から何か得ようとしてみても良いのではと思うのだ。

 

仮にあなたに選択肢があって、そしてあなたはラクロスを始めたかもしれない。

でもそれは、その大学の、その時のラクロスの勧誘がとても素晴らしくて選んだものであり、それこそが環境によってもたらされた新たな刺激なのである。

サッカーをやりたいと思っていた自分を裏切ったのではない。環境からうける刺激を享受したのだ。

 

 

仮にあなたに選択肢があって、そしてあなたは製品検査に就いたかもしれない。

でもそれは、その会社の、そのときのその部署の先輩社員が素晴らしと思ったからで、その環境でないと選べなかった選択だったかもしれないのだ。

その瞬間の気持ちを大事にする事こそ、つまりは環境から何かを得ることになると思うのだ。

 

 

せっかく新しい環境に飛び込んだんだ。

面倒なことも多いだろう、時間がなかなか確保できないだろう。

でもだからこそ、その環境から何か得ないと勿体無いじゃないか。

自分のやりたいことばかりやれることは素晴らしいことのように聞こえるけれど、もしそれを実行しているならば、今あなたがここに身をおいている理由はいったいどこにあるだろう?

 

 

実際は、自分のやりたいことを貫き通すことよりも、環境に身を任せることのほうが簡単だと思う。

出来るのであれば(結局それはバランスなんだろうけれど)、どこにいようが湧いてくるような気持ちを大切にしたい。

でもそうすることは僕には少しばかり難しくて、それでよく考えるとそうしなくてもいいんじゃないか、ということでこのエントリを書いた。

 

 

学費払ってこの環境に身を置いてるんだよなあ。

何か得ないとな。あせるよ。まったく。