数値化できることと、できないこと
僕は中学卒業の時点で既に工学を専攻することを決意したバリバリの理系であるから、物事には理由や具体性を求めてしまうことがよくある。
「求めてしまう」という言い方は、もしかしたらそれは絶対的に正しいことではないようだと、感じ始めたからだ。
理由が見えていることが正しいという考えは、なんとなく全ての物事に当てはまるものではないということはわかっていたけれども、多くの人の話を聞いて、接してみて、いちいち理由を求めてしまうことは愚かなことではないかと痛感し始めているのだ。
理由を求めることは、とてもわかりやすい。
理由がはっきりしているものこそ、肯定することが容易である。
その最たるが、数値化できることだと思っている。
高校(高専)では、勉強する事こそが最も肯定される。
肯定されるし、自分からも肯定しやすいと思う。
勉強の成果は数値に現れるし、その数値は目に見えやすいからだ。
しかし、大学、社会ではどうだろう?
勉強して数値を高めることが、最も肯定されることだろうか。
僕としては、大学でも、数値化できること(ここでは例えば勉強などであるが)は高校に引き続き肯定"しやすい"ものだと思う。
それを行った自分自身としては、数値に表れることは最もよく目に見えるし、後に残るしで肯定する材料を揃えやすいものである。
しかし、それは果たして最も肯定"される"ことでもあるのかと、そう言いたいのだ。
例えば僕がスポーツのサークルに入ろうとしているとする。
その時僕は、そのことを否定する材料が多すぎることに気づく。
毎週時間が取られて行動しづらくなるじゃないか、大学には勉強しに来たんじゃないのか、お金も減っていくぞ、楽しいからって何が残るんだ、運動したいなら一人でランニングでもしていればいじゃないか、、、
ここで、サークル活動と勉強とを比べたら、それぞれ良いことがあるのだろうけど数値に表れる分勉強のほうが圧倒的に肯定しやすいと思う(というか勉強は否定しようがない。やらないよりはやったほうがいい。だからやってるんだと思う)。
しかし最近、社会にでると僕らは、勉強してきたことよりもむしろ人間力のような根本的な部分が必要とされるのではないかと、自分からも感じ始めてきた。
というのも、このこと自体はよく聞かされてきたことであって、そしてそれは現実ではないと思ってきたのだ。
そして僕にとっては、サークル活動だとかそんな理由を見つけにくいような活動を、数値化なんて絶対できないような活動を始めることを肯定することはすごく勇気がいることなんだろうと思う。
これまでは周りより勉強している(たぶん)自分を肯定することが簡単だったから、それに甘えてたのかなあと。
本当はもっと、やるべきことがあったのかなあと。
何度も言うが、数値化できること肯定しやすい。
数値化出来ないことを肯定するには、勇気がいる。
しかし、そろそろその勇気を持てればと思うのだ。
本当に大切なことが何かなんて、今やっていることが正しいかどうかなんて、所詮20年しか生きていないようなガキには分かるはずもないのだから。