時間を割いているという意識

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多忙であればあるほど、心には余裕がなくなる。

それは誰もが経験しただろう関係だから、それでも余裕を持つため、抑えこみたがる意識があると思う。

それは「時間を割いている」という意識だ。

 

特に、それは集団行動に対してである。

集団行動に際してそのような意識は周囲に少し失礼だと、つまり高飛車な考えだと思われがちだが、僕はそうは思わない。

「時間を割いている意識」は、抑えこむ必要は決して無いと思う。

むしろ、それを意識することによって周囲の人間にもいい影響を与えることが出来るのではないかと思うのだ。

 

集団で何かをする時、いちいち「僕は忙しい中でわざわざ時間を割いてやっているんだ」などど言っている奴がいたら、それは周りの人にとってはよっぽど鬱陶しいことだろう。

実際そんなことを言っているナルシスト(?)は、集団から排除されてしまう。

 

しかし、「時間を割いてこの作業をやっているんだ」という意識は、個人にとってはある程度必要なんじゃないかと思うのだ。

口にだす必要はない。意識を持つことが必要なのだ。

そう思うことによって、その作業に対する姿勢は良い方向に変化するのではないだろうか。

 

行う作業によって、当然結果は変化していく。

第一に、その作業がやらなければならない作業の場合、その作業に対する効率は時間を意識することによって上がることだろう。

やらなければならない作業というものは、それが必須であるため「わざわざ」時間を割いているという意識は薄れがちである。

しかし改めてそれを意識することで、必須である作業に対しても受け身ではなく、能動的に取り掛かることができ、結果として効率が上がるのではないだろうか。

 

次に、その作業がやる必要がない作業である場合、時間を割いているという意識を持つことによってそれを断ち切る意志を強くすることが出来る。

日常の多くのことが、やる必要のないことで溢れている。

そして多くの人がそのことを分かっているのだけれど、ただ断ち切ることができないでいるのだと思うのだ。

 

 

最後に(これが主題なのだけれども)、その作業が必須ではないが時間を割いてやる価値が有る場合、それに対する姿勢はより真摯なものとなり、そこから少しでも多くを学ぼうという姿勢が生まれる。

個人の成長がより促され、その割いた時間の価値はより高いものになるだろう。

そして、その姿勢は個人の内部にとどまらない。

周囲の人間にも良い影響を与えることが出来るのだ。

 

時間を割いているという意識によって何かを学ぼうとする姿勢は、周囲の人間にもその「時間を割いている」という意識を改めて喚起する材料となるし、それによって彼らの姿勢も変化していくということだ。

結果として、集団的に時間を有用に使えることができ、より良い果実と高い満足感を得ることが出来る。

集団行動に対して、「わざわざ時間を割いているんだ」という考えは失礼なように聞こえるけれども、本当は全員がそれを意識するべきなのである。

程度はどうであれ、それは確かな事実なのだ。皆が時間を犠牲にして活動している。

 

全員がその事実を真摯に受け止められたなら、より次元の高い集団となれるんじゃないだろうか。

社会人のスポーツ活動に参加していて、僕はまだ学生なのだけれども、多忙な社会人に囲まれて活動していたら、そんな雰囲気を感じたのだ。

僕は特に忙しく無いんだけれど、だからこそ意識するよう努力する必要があるのではないかと、そう思った。