あなたは、あなたの人生を生きるべきである

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僕は、他人の人生を生きるのではなく、出来る限り自分の人生を生きたいと思っている。

これはどういうことかというと、周りの環境に振り回されず、かと言って周囲を拒絶するのではなくそれらを受け入れ自分なりに解釈することで、飽くまでも自分の芯を中心に人生を楽しもう、ということである。

しかしこう言い換えても、やっぱりわかりづらいかなと思う。

僕もこれまであまり上手く説明できなかったのだが、最近やっと腑に落ちてくるようになってきたのでそれを綴ってみる。

 

 

例えば接客業をされている方のインタビューなどで、次のような受け答えが使われることがある。

「私の一番の喜びは、お客様の喜んだ顔を見ることです!」

 

これはとてもかっこいいことだと思うし、そう思えることは素晴らしいことだと思う。

企業や経営者側から見ると、その精神こそが社員や従業員に求めているものではないだろうか。

 

そう思うこと自体は直感的に悪いことだとは思えない。

他人のために何かをすることは、基本的に素晴らしいことなのだ。

 

しかし、他人のために生きるのではなく、自分こそが満足できるような人生を送りたいと思うのなら、その考えが根本にあることは非常に危険だといえるのではないだろうか。

「他人が喜ぶ事こそが、自分の喜びである」、この考えは自分の喜びを他人に「依存」してしまっているのではないかと思うのだ。

自分の喜びを他人の精神状態に依存させてしまうことはかなり危険なことであるし、それは自分の精神がまだまだ未熟で自立出来ていないことを指してしまうのではないだろうかと思う。

 

よくある例が恋人が不機嫌だと自分も不機嫌になってしまい、お互いの精神状態がさらに悪化してしまう、というような例である。

ひどい時はその状態を外部に持ち出してしまい、他人に迷惑をかけてしまうことだってある。

 

このケースでも、自分の精神状態が他人の精神状態に操られているということは、危険だということが分かる。

恋人の機嫌を治すには、自分まで不機嫌になる必要なんてどこにもないはずなのだ。

 

 

ここでは他人という言い方をしたが、これはもっと言うと「自分の外部」という意味である。

「外部」というのは周囲の環境全てを指すことであり、この外部と自分の内部のが影響しあう事こそが重要な点である。

極論としては自分の内部(=自分でコントロールできるであろう部分)のみによって自分の幸せ、喜びを得られる状態というのが目指すべきものではないのかと言いたいのだ。

例えば、その日の天気によって自分の感情が全てコントロールされるような人生では、自分の人生を生きているとは言いがたいし、それはとてつもなくつまらないものだろう。

 

もちろん外部の影響を全てシャットアウトすることはできないし、それはすべきことではないはずだ。

何も一人で生きる事こそが目指すことであると言いたいわけではないのだ。

外部の影響の程度を、自分の内部に与える度合いをコントロールすることができるようになれば、それこそが目指すべき状態なのではないかと思うのである。

外部に依存した喜びではなく、自分の内部から喜びを得られるような生活を送れるのであればそれは幸せな人生ではないだろうか。

 

 

僕の周りでは、僕を含め多くの人が他人に、外部に振り回されながら生活してしまっているように見える。

自分の人生を生きることは、実は結構難しいことなのかなあと思ったりするけれど、もし自分の人生をまっすぐ生きたいのであれば「私の一番の喜びは、お客様の喜んだ顔を見ることです!」というようなことが優先されてしまってはいけないのではないかと思うのだ。