具体性を欠け!
子供の頃から周りの人からたくさんのことを言われてきた。
それらは僕のことを思っての事だったように思うが、僕は本当にそれらの真意を理解していたのだろうか。
今日、こんなツイートを見た。
昔、おばあちゃんに「道を尋ねられるような人になりなさい」と言われたことがある。道を聞かれるということは、服装や髪型がきちんとしていて、表情が穏やかで、姿勢が良くて、優しさの中にどこか頼れる雰囲気を持っているということ。おばあちゃんが伝えたかったのは、きっとそういう意味だと思う。
— 当たり前について考える (@atarimae_think) 2014, 3月 11
ちょっと感動したが、このことから少し考えることがある。
具体性を欠くということ
このツイートからは、当事者は初め「道を尋ねられる人になりなさい」と言われ、その時点ではあまり心に響いていなかったように思われる。
実際、小さい子供の頃にこのようなことだけ言われてもなかなかピンとこないだろう。
そして、そのことは言った側(ここではおばあちゃん)も、これでは伝わらないかもしれないということがわかっていたはずである。
ではなぜそのような言い方をするのか。
もちろんその真意は当人しかわからない。
しかし僕が思うにそれは、人が何かを学ぶときというのは、自分で考察し自分なりに解釈することが一番だから、ということではないだろうか。
つまり何が言いたいかというと、あることを伝えたいとして、そのことについて考察の余地もないくらい具体的に説明してしまうと、そこには自分で考えるという作業は存在せず、結果的に記憶からも抜け落ちやすいし、心に響くこともないのかもしれないのではないか、ということだ。
このことからすると、他人に何かを伝えたいとき、少しばかり具体性をなくしておくと本当の理解が得られるかもしれない、ということになる。
矛盾しているようにも聞こえるが、実体験的にも納得できる部分が誰にでもあるんじゃないかと思うし、考える事の大切さを考慮すると納得のいくことでもある。
しかし、あまりに具体性にかけると、そこには伝えられた側の考察の余地が大きすぎて、理解への溝を埋められないことになってしまう。
例えば「健康でいなさい」という言葉は、具体性があまりに欠けており、考えられる方法が多すぎて、何を伝えたかったのかさっぱりわからない。
それに、具体性がどのくらい欠けていようと、伝えたいことすべてを伝えていない限り本当に伝えたいことを理解してもらえるかなんてわからないのだ。
(上のツイートの例でも、本当におばあちゃんがそれを言いたかったのかどうかはわからない。それは明言されている。しかし、「そう言いたかったのだろう」という当人の心からの理解こそが大切だと思うのだ。)
それにもしかしたら、伝えたいことすべてを正しく伝えるということは、言葉を介している限り不可能かもしれない。
イマジネーションの余地
最近、若者の書籍離れが進んでいるらしい。
そんなことどうやってわかるのかよくわからないが、確かに情報収集や何かを読むという作業はインターネットで事足りるような気もするし、文字だけで何かを伝える書籍はもはや必要なくなってきているようにも感じる。
ネットには難しい言葉をすぐに検索できる場が用意されていて、画像や動画でビジュアルに説明をしてくれるし、何か分からない事があればすぐに関連する記事を探しにいけるからだ。
そんな中、書籍を読まなければならない理由として、どこかでこんなことが言われていた。
視覚的にに訴えてくるメディアは、瞬時に我々に理解をもたらす。
しかし、文字のみで訴えてくる書籍には、我々にイマジネーションの余地を与え、それこそが考える力となり得る。
このことには賛成できるし、のイマジネーションの余地については先のツイートの件とも関係しているのではないだろうか。
具体性を欠くこと、それには即効性がなく、目的である理解そのものを相手の思考能力に委ねてしまうことでもある。
そこには誤解という危険性をはらんでおり、むやみに使うことは許されない。
しかし、そこにはイマジネーションの余地、考察の余地が生まれ、それにより具体性からは得られなかった深い理解と心に響くものというものがあるのではないだろうか。