ちょっとここらで人生を例えてみる

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あなたには、長い間持ち続けている大きな目標があるだろうか。

そしてその目標は達成されただろうか。

 

 

目標と、そのゴール 

 

最近、目標とそれに対するゴールについて話し合う事があって、今の僕は、大きな目標にはしばしば明確なゴールが存在しないと思うようになっている。

このことから、人生とはどういうものなのかと考えることになった。

 

例えば「幸せになる」という誰もが持っているような目標には、具体的なゴールなんて存在しないことは明白だろう。

そして仮にその一瞬であなたの思う幸せになったとしても、その直後不幸せになったのでは目標を達成しゴールしたとはいえない。

それに、「これが求めていたゴールだ」とその時は思っても時が立つに連れその確信は揺らいでいき、それがまやかしだったことに気づくことだってあるだろう。

 

人生に掲げる大きな目標は、それぞれの人生を生きていく中でずっと達成できないものであり、ずっと追い続けるべき目標なのだ。

人生は、その最終的なゴールなど存在しないのだ。

人生は長い努力の積み重ねという意味でマラソンに例えられることがあるけれど、マラソンは最終的なゴールが決まっているのであるから、これは正しい例えではないと思うのだ。

 

しかし、明確なゴールが存在しないということを自覚しておかないと、苦しい目に遭うこととなってしまう。

本当は最終的なゴールなどが無いにも関わらず、それがあると信じているゴールを目指して走り続けるというのは、まさに存在しないものを探し続けていることと同じであり、大きな、そして継続的なストレスを生じさせてしまう原因となる。

ゴールがずっと見えない中で走りをやめずに要られるのは、そのゴールがどこにあるかはわからないからということからであり、そのゴールが存在さえしていなかったと知った時には心のなかで何かが崩れ落ちるだろう。

 

人生はゴールしてはスタートの繰り返しなどと説いているものもあるが、そんな考え方ではなんだか疲れるだけではないかと思う。

つまり短距離走の繰り返しなどと例えられるのだが、全力で走ってはまたスタートし、という状態は実際の人生とは異なると思うのだ。

そんなのめちゃくちゃ大変そうだと思う。僕には絶対無理だ。

実際はもっと、スピードも経路も自由なものであるはずだ。

 

 

例えるならば

 

僕なりに、人生というものを例えてみると、それは

最終目的地など存在せず、だだっ広い土地を自由気ままに放浪しているようなものだと思うのだ。

 

現実における小さな目標のように、広い土地を放浪しているうちにたどり着きたい場所もある出てくるだろう。

しかしそこはあなたがその時点で行ってみたいと願っただけの場所であって、行きたいから行った、立ち去りたいなら立ち去る、それだけなのだ。

短距離走の繰り返しに例えられるほど、小さな目標を作ってはクリアし、という作業は必要ないはずだ。

 

走って移動したい時もあるだろうし、いっとき座り込んでいたい時もあるだろう。

人生にゴールなど存在しないのだから、焦る必要もない、何かを探す必要もない、一点を追い続けることもない、新たなスタートに準備を急ぐ必要もないのだ。

 

そして人生は、その放浪を、歩いたり走ったり、誰かと一緒にだったりと、そういうことを楽しむのではないかと思うのだ。

そして移動すればそれだけ周りの景色は変化していく。

社会は常に変化しているし、人は誰しも変わらずにはいられないが、その変化を楽しむのも人生と思うのだ。

 

上り坂や、風が吹いているときは辛いかもしれない。

でもあなたはマラソンなどと違って自由に動けるのだから、きつければ迂回すればよいし、風もうまく受ければ心地よいものとなるかもしれない。

変化が欲しくない時は、同じ所をぐるぐる回っていてもいいだろう。 

 

長い間放浪していくと、自分が移動してきた記憶によって頭のなかに地図が出来上がっていく。

この地図こそが、現実世界で言う肩書きやそういったものたちなのではないだろうか。

しかしそれは決して目にみえないものであり、また良い地図が出来上がっていればいるほどその道を行くのなら良い指標になるが、一度別の道を選べばまた一から作り直しとなるし、元は自由気ままに放浪することが前提なのだから地図なんて必須ではないのだ。

現実も同じようなものである。

 

 

以上が僕が考える人生の例えである。

人生はマラソンでも短距離走でもない。

最終目的地なんてない、自由気ままな放浪だと思うのである。

敢えて人生の目的を定義するならば、その移動や景色の変化を楽しむことだと思うのだ。

歩いてきた道が頭のなかで地図となって残っていくのだ。

 

 

いつか人生はどんなものかと、真剣に聞かれる日が来るかもしれない。

そんなとき何も応えられないんじゃカッコ悪いと思って、こんなことを考えた。