求めれば全て与えられる

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もう新しい環境にも慣れて、一つ大きなことを感じている。

これはごく限られた経験から感じたものであるが、確実に僕の中でかけがえのないものとなっているのだ。

 

 

 

欲しいものがたくさんある。

たくさんあることはもちろん当然なことであって、でも、一方で際限ない欲望に飽々してくることも当然である。

最近勉強したことだが、聖書ではその人生の際限なき欲望の果てに、最終的な目的を見出すことが重要だと説かれているそうだ。

 

際限ないことは僕のようなガキでもなんとなくわかる。

欲しかったものを手に入れても、また次のものを欲しくなる。当然だ。

 

しかし、一つ経験から感じたことは、「欲しいものは尽きないけれど、正しく求めれば、全てが与えられるのではないか」ということだ。

 

例えばお金が欲しいとする。

正しく求めるとすればバイトをするなどすれば良い。

しかし、人の欲望は際限がなくて、同時に時間も欲しくなるものだ。

ここで、もし正しく求めることが出来るのならば、例えば財団から奨学金を給付(貸与ではなく)してもらう、授業料を免除してもらうなどいくらでも方法はあるが、きっと両方とも余すこと無く得ることが出来るのだ。

 

例えば英語の練習がしたいとする。

それなら海外へ留学でもすればいい。

しかし同時に、お金も時間も欲しいし、今の生活を失いたくないかもしれない。

それならば、留学生に片っ端から声をかけてみて動ける範囲で留学生の友達を作りまくればいい。

もしくはTwitterなどのSNSを使って練習しながら友達を作った後、Skypeなどを使って実際にチャット出来るようにすればいい。

少々のお金があるのならばオンライン英会話レッスンを受けるという手もある。

 

際限のない欲望から僕らは複数の問題を抱えるが、正しく求めることが出来るのならば、いくらでも解決策は存在していて、それらをうまく組み合わせることで望んだものはすべて与えられるのだ。

具体的には、何を求めているのかをはっきりさせて、それに対する弊害を余すこと無く取り上げ、それらを全体的にまたは部分的に満足するような解決策を見つけ出し(これが難しいが、それは周囲からも学ぶことができるし、何を求めているかはっきりすれば不可能なことではないと思う。基本は情報収集と想像力である)それらを同時に、組み合わせて実行することで、目的を達成することが可能なのではないかということだ。

 

 

ここで大切なことは、あくまで「与えられる」と考えるべきである、ということだ。

何故かと言うと、これらは自分から手に入れられる領域を少しばかり超えていて、決して自ら手に入れたわけではないからだ。

 

一つ目の例では、他者からお金をもらうか、払うべきお金を免除してもらっている。

2つ目の例では、他者の協力が大前提であるし、それによってもちろん達成度も変わってくる。

双方は、自分だけでは解決することの出来ない問題を抱えている。

 

聖書によると、人間の欲望は際限がなくて、だから本当の目的を見出すために神を信じよう、みたいな現実逃避のような内容が書かれているみたいだけれども、

確かに一人の力で一人の欲望に立ち向かうことはなかなか出来なくて、やはりそのためには他者から「与えられる」しか無いのだ。

そして、「与えられる」には「正しく求める」ことが必要不可欠である。

 

 

以前は「求めれば全て与えられる」なんて大層なこと考えたこともなかったが、最近実はそうなんじゃないかと思うようになってきた。

すると、より一層求めるようになるし、一層与えられるようになった気がする。

以前にも増して未来は明るいもののように思えるし、欲望に際限がないことと同じように、可能性にも際限がないのだと思えるようになった。

 

 

 

 

この間、全然わからない問題があって、なんとなく隣に座っていた全く面識のない人にそれを尋ねてみた。

すると想像していた以上に親切に教えてもらうことが出来て、聞いてみるもんだなと思った。

もしかしたら、ただ教えてもらうだけではなくて、それをきっかけにさらに関係を深められるのかもしれないし、仮に教えてもらえなくても、元々知り合いではないのだから失うものなど無いのだ。

正しく求めることで、ただ与えられるのだと、そう思うのだ。

 

*それが事実かどうかは別として、そう思うことが出来る*

 

 

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