過程ではなく、結果のみを考えること

     f:id:Ya-Yuki:20140705111827j:plain

 

「あいつ、あんだけ努力していたのにあの結果じゃあなあ」

と言われることを、多くの人が恐れている。

そのせいで、努力しているところを人に見られないようにしている人がいる。

もし万が一失敗したときのダメージを最小に抑えるためだ。

 

確かに、努力した量と結果が釣り合っていないと自分も辛いし、周りの目も厳しいものになる。

だから、「あんまり準備できてなかったからなあ」、「あの努力じゃこんなもんでしょ」と言い訳するための用意をしたくなる。

頑張ったのに報われないことこそ、やるせないものは無いはずだ。

努力すること自体が、リスクを持っているようにさえ感じられる。

 

しかし、それらは本当に妥当な考え方なのだろうか?

何かを行うとして、もしその結果のみにフォーカスするのであれば、どれくらい努力したのかなど、過程がどうだったかなど全く関係のないものではないだろうか。

 

死ぬほど努力してある一定の成果を出した人がいるとする。

その一方で、ほとんど努力しなくとも同じくらいの成果を出せる人がいるとする。

 

周囲の人々はそんなよくある状況を見て、前者を批判して後者をほめたたえることが多いが、本当にそれは的を得ているのだろうか。

 確かに、効率、努力にたする結果を考えると後者のほうがより優れているといえるだろう。

楽に、いい結果を出すことほど、誰もが欲しがっているものはない。

 

しかし、もし結果のみに着目するとしたら、両者はまったく同じ評価を得るべきなのだ。

これは結果として同じ成果を出したのだから当然のことである。

よって結果のみに着目すると、効率がよかろうが悪かろうが、準備にどれだけ時間を割こうが割くまいが関係ないのであって、

つまり何が言いたいかというと、死ぬほど努力をしたのにそれほどいい結果でなくとも、結果のみを見るなら何も落胆する必要はないということだ。

他人に過程を批判されようがどうだろうが、出した結果がすべてなのだから、それらを考慮する必要は一切ない。

考えるべきは結果のみで、それならその結果をより良いものにするために最大限の努力をするべきだ、ということだ。

 

なんとなく、客観的に事後を評価しようとしても、最低限の努力で成果を出せたほうがベターであるかのような気分になるものである。

しかし今となっては、めちゃくちゃ頑張ってある成果を出した場合と、最低限の努力で同じ成果を出した場合のどちらがいいのだろうかと問われると、僕は自信をもって、どちらも同じだと答えることができる。

客観的に評価するのなら過程ではなく結果に注目するべきであって、結果だけを見ればそれらは当然同じレベルだからである。

 

そもそも、過程をも判断基準に入れることは少しばかり愚かなことのように感じられるのだ。

なぜなら、過程など証明できるものはごく少なく、本人しかわからないことばかりであるし、判断基準にするにはあまりに曖昧だからだ。

 めちゃくちゃ頑張った場合は、結果に現れた以上に知識や経験が蓄積されているのでは?と考えることもあるだろうが、そういうこともあるだろうし、そうじゃないこともあるだろうとしか言えない。

仮に何かを得ていても、それが役に立つかなんて現時点では予想することしかできないのだ。

最低限の努力で結果を残したとしても、それが本当に楽だったかなんて誰にも分らない。

その時間でさえ十分にその人を苦しめたかもしれないし、余った得た時間をどう使ったかで評価はどうとでも変わるだろう。

 

そして僕らは、評価がどちらも同じなら明らかに、より結果を出しやすいであろう、努力を欠かさないほうを選ぶべきだ。

どうすれば結果を出せるかのみを考え、事後はその結果のみを評価すればいいのだ。

実に単純な話だし、努力することを肯定する良い材料になる。

 

しかし、最初に述べたように他人からの批判からは逃げられない。

よってそれさえも努力の材料にするしかないように感じる。

つまり努力しているということを公言して、このままでは結果を出さないと批判されると、自分にプレッシャーを与えるということである。

 

自分が行ったことを客観的に評価することは、あまりに考慮すべきことが多すぎて難しいことは周知の事実なのだから、結果のみに注目することはごく妥当なことなのだ。

そしてそう考えることで、前述したように言い訳を考える必要もなくなるし、努力することをより肯定できるしと、良い方向に向かうのではないかと考えている。